【ピアノインストラクターブログ Vol.10】作曲家の通称(あだ名)をご存知ですか?

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2024年03月23日

皆さまこんにちは!ピアノインストラクターの芝田佳子(しばたかこ)です。3月になりましたね。受験や卒業、お別れが重なるシーズンになるかと思います。私も受験期は色々ありました。勉強も頑張りながら高校受験、大学受験とどちらも音楽科や音大を目指して日々ピアノを練習する毎日でした。大変でしたがその時の頑張り、 […]

皆さまこんにちは!ピアノインストラクターの芝田佳子(しばたかこ)です。

3月になりましたね。受験や卒業、お別れが重なるシーズンになるかと思います。私も受験期は色々ありました。勉強も頑張りながら高校受験、大学受験とどちらも音楽科や音大を目指して日々ピアノを練習する毎日でした。大変でしたがその時の頑張り、積み重ねがあるからこそ今に至ります。今は、こうして皆様に音楽の楽しさを伝える側としてピアノに関われていることを嬉しく思います♪
皆様の新たな門出を応援しています💐

今回で10回目を迎えるブログです!!レッスン以外にも楽しんでいただけるコンテンツになっていれば幸いです!
クラシック作曲家について記事を書いていきます!

有名な作曲家にはあだ名がついています!

歴史に名を残す作曲家たちには、その偉大な功績からあだ名がついています。そのほとんどは作曲家が亡くなってから、後世につけられたもの日本だけで呼ばれているものもありますが、その理由と作曲家の歴史を一緒に振り返っていきましょう♪

音楽の父

バッハ(Johann Sebastian Bach)

バッハ(Johann Sebastian Bach)

1685年にドイツに生まれたバロック音楽を代表する作曲家です。先祖代々続く音楽一家に生まれ、教会のオルガニストや聖歌隊の指導者として働いた後、アンハルト=ケーテン侯国宮廷楽長に就任し作曲活動に励みます。生涯で1000曲を超える楽曲を作曲していますが教会のためのものがほとんどでした。晩年は生まれつき視力が良くなかったバッハですが、急激な視力低下と脳卒中で1750年に死去。18世紀のドイツはオペラが主流でありオペラを作曲していないバッハは死後、世間からは忘れ去られていましたが、ドイツの音楽家・メンデルスゾーンがバッハの作品「マタイ受難曲」を復活上演したことが大きなきっかけでバッハの「対位法」「フーガ」といった作曲技法が評価され、後の音楽の世界に多大なる影響を与え西洋音楽の基礎を築き、「音楽の父」呼ばれるようになりました。

音楽の母

ヘンデル            (Georg Friedrich Händel)

ヘンデル            (Georg Friedrich Händel)

バッハと同じ、1685年にドイツに生まれたバロック時代の作曲家ですが主にイギリスの地で活躍しました。父親は宮廷つきの外科医で、音楽とは無縁の家系でした。息子には法律家になることを求め、ヘンデルは法律を勉強をしていましたが、音楽の道を諦めきれず大聖堂でオルガニストとして務めていたヘンデルは、本格的に音楽の道に進みます。当時音楽芸術の最先端だったイタリアのフィレンツェに留学をしオペラを制作します。イギリス移住後は、オラトリオ(聖書の内容が題材の音楽劇)の制作で成功を収めました。オペラやオラトリオなど劇作品を中心とした楽曲を残しバッハと対極の作曲家であったため「音楽の母」と日本で名付けられるようになりました。

交響曲の父・弦楽四重奏曲の父

ハイドン(Franz Joseph Haydn)

ハイドン(Franz Joseph Haydn)

1732年オーストリアに生まれた、古典派音楽を確立させた作曲家です。親戚の音楽学校の校長に音楽の才能を見出され、8歳でシュテファン大聖堂の聖歌隊の一員になり専門的な音楽教育を受け活躍しました。9年間所属しましたが変声期によって退団を余儀なくされます。その後、作曲の勉強を始めしばらくは定職に就かずに演奏者としての活動で収入を得ていました。少しずつ評判が知られていく中でエステルハージ家の副楽長という職を手にし、学長にも就任し約30年間務め、そこで一族の楽団のため作曲をしていく中で創作意欲が高まり、104曲の交響曲、68曲の弦楽四重奏曲を残しています。モーツァルトやベートーヴェンなど後の音楽家たちが彼の作品を手本にしたことから「交響曲の父」、「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれるようになりました。

神童

モーツァルト       (Wolfgang Amadeus Mozart)

モーツァルト       (Wolfgang Amadeus Mozart)

1756年にオーストリアに生まれた古典派を代表する作曲家です。生涯で計626もの曲を作り、ソロから室内楽、オーケストラ、オペラまですべての音楽ジャンルを手掛けており数多くの名曲を残しています。音楽家であった父レオポルドにより、幼い頃から音楽の英才教育を施され、3歳でチェンバロを演奏、5歳にして作曲をしていました。幼少期からヨーロッパ各地に演奏旅行に渡り、その才能を遺憾なく発揮し、周りからは「神童」と呼ばれるようになりました。各国の音楽に触れ、吸収していく中で対位法やポリフォニー技法といった作曲技術を学びました。宮廷音楽家をした後、フリーの音楽家として活動していましたが、浪費癖があったモーツァルトは生活が困窮し、晩年は病に苦しめられ35歳という若さで亡くなっています。

楽聖

ベートーヴェン         (Ludwig van Beethoven)

ベートーヴェン         (Ludwig van Beethoven)

1770年にドイツに生まれた古典派を代表する作曲家です。数多くの名作を残していますが、苦悩多き人生でした。宮廷歌手であった父は息子を「モーツァルトのようにしたい」と音楽のスパルタ教育をし、8歳でケルンの演奏会でデビューを果たしますが、父がアルコール依存症で生活は厳しい状況でした。やがてベートーヴェンはハイドンなどに音楽の才能を認められてウィーンに移住し、20代になるとピアニストとして活躍します。20代後半から難聴を患い、音楽家でありながら聴力を失うという絶望を味わいますが「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く中で音楽への情熱を自覚し絶望を乗り越え、作曲家として大成していきます。晩年は、「運命」や「第九」をはじめとする数々の不朽の名作が生みだされ、音楽に対する信念、そして数々の名曲を残したことから、“聖なる音楽家” 「楽聖」 と呼ばれています。

ベートーヴェンが世界に革命を起こした功績をもう少し詳しく説明すると、
当時の音楽は貴族のための「娯楽」として音楽家たちは宮廷や教会のために作るのが一般的でしたが、ベートーヴェンは自分の作りたい曲を自由に作曲することをはじめて行いました。音楽を一部の特権階級の人達のものではなく、庶民のために解放したのです。

また、現在では当たり前であるクラシック音楽のコンサートは、黙って静かに聴かなければいけないという暗黙のルールのようなものがありますよね。これを確立したのもベートーヴェンです。貴族のための「娯楽」としての音楽ではなく「芸術」として扱うようになったのもベートーヴェンの功績のひとつです。

歌曲の王

シューベルト          (Franz Peter Schubert)

シューベルト          (Franz Peter Schubert)

1797年にオーストリアに生まれたロマン派を代表する作曲家です。生涯で約1000曲の作品を残し、歌曲は約600曲ほど作曲しているため「歌曲の王」と言われています。父の勧めでヴァイオリンを始め、音楽の才能を発揮したシューベルトは聖歌隊指揮者のもとで本格的に音楽を学び始めます。その後、より高い音楽教育を受けられるコンヴィクトに入学。宮廷楽長のサリエリによる指導のもと、才能をのばし、室内楽や交響曲を書き始めます。卒業後は教師を得て、作曲に専念するようになり、有名な『魔王』などを生み出します。裕福ではなかったですが、周りの環境や友人に恵まれ❝シューベルティアーデ❞と呼ばれる彼を支える支援者の協力も得て自立した音楽家として活動します。その後はドイツ歌曲「リート」の創作に励みます。美しい旋律と創造性に富んだ伴奏をあたえることによってこのジャンルを芸術の域にまで高めました。晩年は、『冬の旅』といった傑作を作曲し、31歳の若さで亡くなっています。

ピアノの詩人

ショパン          (Fryderyk Franciszek Chopin)

ショパン          (Fryderyk Franciszek Chopin)

1810年にポーランドに生まれたロマン派を代表する作曲家です。作品のほとんどがピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と呼ばれています。音楽好きな両親のもとで幼い頃から音楽に触れ優れた才能を発揮します。音楽家のジヴニーから指導を受け7歳でポロネーズを作曲し、8歳の頃には演奏会デビューを果たします。第2のモーツァルトの登場と言われるまでになりました。ワルシャワ音楽院に入学し首席で卒業した後は、ロシアの圧政下にあったポーランドを離れ、ウィーンに演奏会に渡ります。ポーランドでは反ロシア暴動、独立革命失敗を受け憔悴しますが芸術家として生きるべく祖国に帰ることはありませんでした。祖国愛が強いショパンはポーランドの民族舞曲を基にした「マズルカ」などを作曲しています。その後、パリデビューも大成功を収めショパンの名が広がります。そこで多くの作曲家と交流をしました。ジョルジュ・サンドと出会い「バラード」「スケルツォ」など、ショパンの最高傑作とも呼ばれる数々の作品が多く作曲されました。晩年はジョルジュ・サンドとの別れもあり病弱だったため39歳で亡くなっています。

ピアノの魔術師

リスト(Franz Liszt)

リスト(Franz Liszt)

1811年ハンガリーで生まれたロマン派を代表する作曲家です。父の手ほどきで幼少時から音楽の才能を発揮し、10歳になる頃には演奏会を開催します。専門的に音楽を学ぶべくウィーンに移りピアノをチェルニーに、作曲をサリエリから学びます。コンサートを開いた際に晩年のベートーヴェンから称賛を受け、その後活躍の場を求めパリに進出し、ピアニスト、ピアノ講師として生計を立てていました。当時人気を博していた技巧派ヴァイオリニストのパガニーニの演奏に衝撃を受け、自身もピアノでそれを成すことを決意し猛練習に励み、演奏会を行えば超絶技巧と端正な美貌で人々を魅了し、失神する人もいるほどでした。これが「ピアノの魔術師」と言われている所以です。ショパンとも交流があり、良きライバルとしてお互いを認め合っていました。30代半ばにドイツのワイマール宮廷楽団の楽長に就任。作曲家、指揮者としても活躍します。また、教育者として若い作曲家の後押しをしていました。音楽への探求を続け、晩年のリストの作品はフランス印象主義に多大な影響を与えました。最後は病に苦しめられ74歳で亡くなっています。

まとめ

今回はクラシック作曲家について記事を書きましたが、改めて素晴らしい功績を実感することができ、私たちは当たり前に曲を弾いていますが、亡くなった後もこうして多くの人に弾き継がれていることって本当にすごいなと思いました。弾いたことがない曲はまだ山ほどあります。これからも私の音楽の勉強は続いていくんだなぁと思うと音楽って本当に奥深く、まだまだ自分の未熟さを感じます。ですが大好きな音楽に関われていることに幸せを感じる日々です。演奏者として、ピアノを教える指導者としてこれからも勉強していきます!一緒に楽しみながら頑張りましょう♪

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