「まさか、新卒で入社した会社から取材を受ける日が来るなんて、思いもしませんでした」
インタビューの冒頭、照れくさそうに笑いながらそう語るのは、奈良県唯一のDJスクール「F.D.P DJ SCHOOL」を運営する、DJ LEGOこと吉川潤さん(42)だ。
実は彼は、当メディア「Happy Jam」を運営する島村楽器の「元・新卒社員」である。
新卒で入社したものの、わずか10ヶ月で退職。その後、音楽とは無関係の職を転々とし、DJスクールを立ち上げた。現在は生徒数70名を抱え、自身も月に55名ほどの個人レッスンを担当。個人規模のDJスクールとは思えないほどの人気を博している。
吉川さんが教えている年齢層は小学生から50代まで、男女関係なく幅広い。さらに盆踊りや幼稚園へ出張DJを行っており、毎年依頼が途切れることなく増え続けている。
「DJは、100%誰でもできます」と断言する彼が、いかにして「DJを教えるプロ」として全国有数のスクールを築き上げるに至ったのか。元楽器屋の半生と、音楽への情熱に迫った。

名前は「Fun DJ Play(DJするって楽しい)」の頭文字を取ったという。
きっかけは、同級生の「杉本」だった
1985年、吉川さんはのんびりとした田舎町、奈良県田原本町で生まれ育った。実家は地元の大型スーパーの中で喫茶店を営んでおり、彼は小学2年生の頃から高校生まで皿洗いなどをして手伝っていたという。
彼がヒップホップに出会ったのは中学3年生の時。きっかけは、同級生の「杉本」だった。
「当時、深夜にブラックミュージックカルチャーを紹介する深夜番組がやってたんです(※テレビ東京の音楽番組『流派-R』)。それを観た友達の杉本が『ヒップホップってあるぞ』って言い出して。最初はぜんぜん良さがわからなかったんです。『かっこいいって言っとかな、あかんのかな』と、無理して話を聞いてました」

ちょうどその頃、「杉本」を含む数名の友人たちと地元のスケートボードパークに通うようになっていた。そこには、同じようにスケートボードを楽しむ年上の「お兄ちゃん」たちがいたという。
その先輩たちは、パークの近くでスケートボードやストリート系の服を扱うセレクトショップを営んでいた。ある店のオーナーはDJもやっており、店内にはターンテーブルなどのDJ機材一式が無造作に置かれていた。
スケートボードを滑り、自分の店を持ち、DJもこなす大人たち。ストリートカルチャーを体現するようなその姿を見て、吉川さんたちは「かっけー!」と尊敬のまなざしを向ける。この憧れから、仲間うちで「俺たちもDJをやろう」と盛り上がった。
ヒップホップ×スケートボード×DJ……。吉川さんは後から知ることになるが、この3つは親和性の高いカテゴリーだった。それぞれのコミュニティから情報を得やすい環境だったため、友人たちはあっという間にDJ機材を集め始め、没頭していった。その輪の中で、吉川さんは焦った。
「やばい。僕も買わないと取り残されるぞ……」
「これ、1やねん」と言われて
高校入学前のそわそわした春、半ば流されるようにして地元の家電量販店で総額20万円近いターンテーブル一式を購入した。高額な買い物だったが、母親に相談したところ「ただ遊ぶんじゃなくて、形に残る物を買うんやったらいいんじゃない」と許可を得て、入学祝いでの購入だった。また、友人の杉本さんがこの量販店の店員と親しく、値引き交渉をしてくれたことも購入を大きく後押ししたという。
しかし、機材は届いたものの、初心者の吉川さんには当然セッティングの仕方すらわからない。そこで、先に機材を買っていて扱いを知っていた杉本さんと、もうひとりの友人に家に来てもらった。
無事に機材が繋がり、「まずはレコードを買いに行かなあかん」と友人に言われるままレコードを数枚買った。
いざDJのやり方を杉本さんに教えてもらおうとしたが、杉本さん本人も、当時はまだDJの仕組みをあまり分かっていなかったらしい。スピーカーからの出音(でおと)である「ドクッ、ドクッ」というバスドラムの重低音を指して、「これ、1やねん」と言われたという。
あとは、レコードを巻き戻して同じフレーズを繰り返す「ループ」という動作を教えられたのみで、吉川さんは当時の心境を「なんのこっちゃって感じでした」と振り返る。
実はこの時、杉本さんは、カウントの小節の頭について話していた。音楽には4拍子なら「ワン・ツー・スリー・フォー」というリズムがある。ヒップホップなどの楽曲ではバスドラムの強い音が「1」の拍に当たることが多い。
DJが2つの曲を途切れることなくミックスする(繋ぐ)とき、この「1」の拍同士をピッタリ合わせる必要がある。これがズレると、両方の曲のリズムがバラバラに重なり、「ドタドタ……」と不快な音楽になってしまう。
けれど、機材を買ったばかりで「友達にのっかっただけ」の吉川さんに、その理屈がわかるはずもない。セッティングも人任せ、レコードにのせる針の付け方すら怪しい初心者だった吉川さんは、なんと、そこから数カ月間、機材を放置してしまう。「こんな高い買い物するんやったら、服買った方が良かったなぁ」と、機材を眺めた。

DJデビューを果たすも、ほろ苦い思い出
再び機材に触れるきっかけは、スケートボード雑誌に載っていたDJ特集だった。そこに書かれていたカウントの解説を見て、「杉本が言っていたのはこれか!」と、ようやく腑に落ちたのである。
意味がわかると、曲のつなぎ方も少しずつ理解できるようになる。MDに好きな曲を入れ、それぞれの音楽のリズム「1」をまるでクイズゲームのように当てる、ということを毎日続けた。次第に、「この曲とこの曲を繋げたらいいかも」とイメージが湧いてきた。
高校1年生の秋、友人とお金を出し合い、奈良の三条通りにあるライブハウスを借りてDJデビューを果たした。
しかし、初のステージはほろ苦いものだった。
「めっちゃ緊張しましたし、ヘッドホンをさす手が震えて、させへんかったです」
曲同士のテンポ(BPM)を合わせるため、あらかじめカンペに数字を書いて臨んだものの、一行ずれて読んでいたせいで段取りを見失ってしまった。
パフォーマンスを終えた後、応援にかけつけた友人たちから「よかったで!」と励まされた。吉川さんは「ぜんぜんあかんやろ……」と思った。
こうして、少しの後悔と「ひとまず終わった」という安堵感とともに、DJとしての一歩を踏み出したのである。
DJ名の由来は「顔がLEGO人形に似ていたから」!?
その後、吉川さんは友達と遊ぶ一貫として、イベントやライブハウスでパフォーマンスをするなどDJを楽しむようになる。高校を卒業し、大学へ進学してからもマイペースに活動を続けていた。
DJ名の「DJ LEGO」は、大学生の頃から名乗り始めた。由来は友人から「LEGOブロックの人形の顔に似てるなぁ」と言われたことからだった。
このタイミングで、自主制作のミックスCDを作り、企画書を片手に自らレコードショップへ営業の電話をかけて置かせてもらうなどの活動を開始。「今はもう法律上できませんが、いわゆる海賊版ですね」と吉川さん。彼の編集技術は、DJ仲間からも好評だった。

島村楽器への入社、故郷への思い
大学卒業を控えた2006年夏、「今就職しないと、人生が終わる」という周りの雰囲気に影響された吉川さんは、焦燥感に駆られていた。これといってやりたい仕事が見つからなかったのだ。
ひとまず、就職サイトで「音楽」と検索すると、「島村楽器」の採用ページがヒットした。
そこで思い出したのが、地元の奈良にある島村楽器の店舗だった。
DJ機材などを見るため、よくその店へ足を運んでいた吉川さん。そこで対応してくれた店員さんは右も左も分からない若者に対して、温かく接してくれたのだ。
「あの店員さんが働く楽器屋なら、いい会社かも!」
やりたいことが見つからなかった若者らしい思い付きで、新卒採用ページからエントリー。そこからトントン拍子に面接を突破し、島村楽器に採用された。ただ、配属されたのは地元から離れた名古屋市の大型店舗だった。同期80人の中でDJ経験者は吉川さん含めてわずか2人だったため、DJ機材の販売に強い名古屋の店舗から「当然、うちに来るよね!」と熱望された結果の配属だった。
仕事を覚える楽しさはあったものの、初めての一人暮らしと、慣れない土地での生活は、吉川さんの心に少しずつ影を落としていく。
ふと見上げる名古屋の空はビル群に切り取られ、とても小さく見えた。地元の奈良のように季節を通じて色合いを変える山々は見当たらない。故郷への恋しさが募った。
「人というより、町並みへのホームシックでした。 生まれてからずっと山と田んぼに囲まれてきたから、寂しくて仕方がなかったです」
この時、彼の中にあったヒップホップカルチャー特有の「Keep it real(自分に嘘をつかず、ありのままでいる)」が呼び覚まされたのかもしれない。
友達とDJの技を見せあった日々、山に囲まれながらスケボーに明け暮れたこと。それらの思い出が、吉川さんの心を奈良に呼び戻した。
結果として、吉川さんは約10ヶ月で島村楽器を退職し、帰郷。楽器店でのキャリアは、こうして短い期間で幕を閉じることになる。

火事の中でも守りたかった「DJのすべて」
その後、音楽とは全く関係ない会社の営業職を転々とし、実家で暮らしていた25歳のある日、家が漏電により全焼する事件が起きる。
知らせを受けて急いで家に戻ると、建物自体は崩れずに立っていたものの、屋根が焼け落ちている状態だった。幸いにも吉川さんの部屋は火元から一番遠かったため、消防の許可を得て、一目散に自分の部屋に入った。
吉川さんは当時のDJ活動を「ちょっと行き過ぎた趣味くらいだった」と振り返る。しかし、極限状態の中で彼が真っ先に救出したのは、パソコンとターンテーブルだった。

その頃、趣味の延長で、ミックスCDの製作も続けていた。すると、著名なDJが吉川さんのCDを聴いて「うちでCD出さない?」と声をかけてきた。
それは、大手販売店の店頭で流通するミックスCDの制作依頼だった。1回リリースするごとに30万円ほどのギャランティーをもらえるという。「自分の編集技術をもっと磨きたい」と思っていた吉川さんは、会社に勤めながら、副業でこの依頼を引き受けた。彼はこの制作を2年ほど続けることになる。
仕事として取り組んだことから、さらに彼のテクニックは磨かれた。
「何回もやると、『こういう編集をしたら、こういう風に聞かせられる』って、いろんなパターンができるようになってきて。最終のイメージに対して、どう編集したらいいかが素早く浮かぶようになりました」
ここで培われた技術が、思わぬ形で花開くことになる。
DJ大会で復活枠からの快挙
DJには、大きく分けて2つの世界大会が存在する。一つは純粋なDJスキルを競う「DMC」、もう一つはスキルに加えてパフォーマンスなどのエンターテインメント性も重視される「Red Bull Thre3Style」である。
エナジードリンクブランドであるレッドブル(Red Bull)が主催するこの大会は、DJシーンで非常に大きな勢いを持っていた。
2015年、30歳の時、吉川さんは、「Red Bull Thre3Style」日本大会の大阪予選にエントリーした。それまで一度も大会に出たことがなかったが、自らの編集技術への自信が背中を押した。
大会のステージはクラブでのDJプレイとはまったくの別物だった。普段のプレイでは時間は区切られておらず、客の反応を見ながらその場で選曲し、時にはお酒を楽しみつつ空間を作っていく。
だが、コンテストでは、15分の持ち時間の中で、いかに観客を盛り上げ、自分の技術を見せつけられるかが問われる。その場に合わせて曲を選ぶのではなく、あらかじめ構成を暗記し、緻密で細かいテクニックをミスなく披露しなければならない。
「絶対固まってしまう。どんな状態になっても手が動く状態にしておかなあかん」
そう考えた吉川さんは、1〜2ヶ月前から毎日「緊張せえへん、緊張せえへん」と自己暗示をかけ続けた。さらにクラブを貸し切り、友人を観客に見立てて本番さながらの反復練習を繰り返した。
「パソコンの画面ばかり見すぎていないか?」
「しっかり前(客席)を向いてパフォーマンスできているか?」
そういったことを指摘してもらい、細部まで徹底的に見直して本番に挑んだ。手汗は拭き過ぎず、適度な湿り具合を残して臨むなど、細かいケアにもこだわった。DJは、指先でレコード盤やターンテーブル上のコントロールバイナルをミリ単位で前後に動かしたり、一瞬だけ止めたりする極めて繊細なタッチが求められるからだ。
迎えた大阪予選のステージ。600人近い観客の熱気の中で、彼の意識は研ぎ澄まされていた。
「緊張と冷静と、アドレナリンの間みたいな感じでしたね。自分がうまくできるかどうかに必死で、お客さんを見る余裕なんてなかったです」
勝つことや盛り上げることを意識する余裕すらなく、ただただ練習してきた自分のプレイをノーミスで出し切ることだけに集中した。無我夢中で15分間を駆け抜け、プレイを終えた直後、観客の声援は音楽のボリュームを上げるようにゆっくりと耳に入ってきた。
ステージを降りた彼を待っていたのは、仲間たちからの「めっちゃ良かったで!」という興奮交じりの歓声だった。その時初めて、彼は自分のプレイが観客を熱狂させていたことに気がついたのだ。
結果は、関西エリアで惜しくも2位。しかし、全国からたった1枠のみ選ばれる敗者復活枠を勝ち取って、各都市の予選通過者8名のみが立つことができるジャパンファイナルへの進出を決めたのだ。
歴代のファイナルの演技を見ると、流行りに合わせた選曲が好まれていたが、2015年6月に開催されたジャパンファイナルで、吉川さんは自身の好きな曲を選定し、自分のモチベーションがあがるミックスにこだわった。優勝は逃し、世界大会出場は叶わなかったものの、会場は大いに盛り上がり、納得のいくプレイができた。「今思うと、自分が作りたいまま作ったのが、逆に良かったのかもしれない」と振り返る。

「DJスクールなんか食われへんで」と言われても、勝算があった
熱狂の中心にいた人物は翌日の朝、勤務する会社にスーツ姿で出社した。大会で実績を残した吉川さんだったが、DJは、あくまでも「行き過ぎた趣味」。誰かに自慢するでもなく、淡々と仕事をこなした。
そこから1年ほどが経ち、勤める会社の社長が変わったことで、吉川さんは不満を抱えていた。ある日、愚痴をこぼす彼を見て、結婚したばかりの妻からこう言われた。
「もう、自分で何かしたら?」
その言葉を聞いて、吉川さんはハッとする。
「それも、そやな」
すぐに紙とペンを取り出し、これから自分が仕事にできそうなことを書き出した。その中にあったのが「DJスクール」だった。
吉川さんにはこの言葉が、妙に光って見えた。さっそく周囲の先輩DJたちに相談してみると、「DJスクールなんか食われへんで」「きついで」と反対された。
それでも吉川さんは、「勝算があるはずだ」と思ったという。
「DJって『機会があればやってみたい』って思っている人が、意外と多いんです。奈良県は100万人以上いる。その中から60人くらい、DJをしてみたい人を集めるっていうのは、僕ならできるって気持ちがありました」
プロから依頼を受けたミックスの技術、大きな大会での結果を残したこと、DJ仲間とともにイベントを開いた経験……。歩んできた道のりに自信があった吉川さんは、「DJ講師になる」と決めた。

教室運営に必要なのは「コミュニティ力」
会社を辞めた吉川さんは、2018年に奈良の大和八木駅近のビルの1階で「F.D.P DJ SCHOOL」を開校した。しばらくはネットショップで友人とスマートフォンケースを販売したり、地元の農家で収穫のアルバイトをしたりして、当面の生活費やテナントの家賃を稼ぎながらのスタートだった。
当時のビルの家賃は6万円弱。月謝を約1万6,000円に設定した吉川さんは、「5人の生徒が集まれば、とりあえず家賃をペイしてプラスを出せる」と考えていた。地元・奈良での人脈とSNSを駆使し、3ヵ月でちょうど5人の生徒が集まった。しかし、課題は「どうやって生徒に長く続けてもらうか」である。
そこで吉川さんが教室運営に力を入れたのは、「コミュニティ」だった。
「僕のDJの技術どうこうよりも、教室のコミュニティ力が大事やと思ってて。僕もそうでしたけど、DJをしていると友達がどんどん増えていくんです。だからモチベーションをキープできた。仲間が見ているから、少し難しい技にも挑戦したくなるんです」
生徒同士の横の繋がりを広げること――。それが教室運営の存続につながると信じた彼は、発表の場となるイベントを自ら企画した。奈良で40〜50代の生徒向けにディスコナイトを開催したり、小中学生限定のキッズイベントを企画したりと、生徒が主役になれる舞台を次々と用意したのだ。

「スクラッチ」は、サッカーでいう「リフティング」
スクールに通い続けてもらうための工夫は、コミュニティ作りだけではない。もう一つ彼が重視しているのが、「スクラッチ」という技術の指導だ。レコードをこすって音を出すDJならではの代表的な技術である。
スクラッチは、習得のハードルが高い。なぜなら、成功したかどうかを自分で確認しにくいからだ。
「スクラッチって、筋トレに近いんです。コツコツゆっくりと、体に馴染ませる作業なので、サッカーでいうと、リフティングを練習する感じに近いかもしれないです」
地道な練習が必要なため、長年DJをやっている人でも「スクラッチはやらなくてもいい」と敬遠しがちだという。ベテランになるほど「今さらできないと思われたくない」というプライドが邪魔をしてしまうのだ。
だからこそ、吉川さんはあえて、DJを始めたばかりの初心者のうちにスクラッチを教えている。
「失敗かどうかわからないうちに『スクラッチは先にやるもの』と教えた方が抵抗がないんです。『DJで何か見せて』と言われた時に、ミックス(曲のつなぎ)だけやったらパンチが弱い。そこにスクラッチを入れるから、『すごい!』となる。この高揚感を得るにはできた方がいい。DJをより楽しもうと思ったら、技を覚えた方が楽しいですから」

経営者として…DJの未来をつくる
教室で生徒たちにDJの楽しさを伝える一方で、吉川さん自身もプレイヤーとしてDJの可能性を広げている。企業や自治体から依頼を受け、フードコートやホテルのラウンジ、さらには地元の盆踊り大会のやぐらの上でDJを披露するなど、多岐にわたる現場でプレイしているのだ。
とくに、音楽とエンターテインメントを融合させた体験は子どもたちに大ウケだという。
「幼稚園からの依頼でDJ体験教室をすることがあるんです。例えば、マリオがジャンプする時の『プゥンッ!』っていう音があるでしょう。あの効果音に合わせてスクラッチを入れると、すごく盛り上がるんです。『この音でみんなでジャンプしてみよう!』と言うと、みんな喜んで飛び跳ねてくれます」
そして今、吉川さんは一人の人気講師から、経営者へシフトしようとしている。生徒数が70名を超え、自身の時間だけでは限界が見えてきたからだ。
彼は思い切って自分以外の講師を育成し始めた。長年通ってくれていた20代の生徒たちを講師として迎え入れ、デビューさせた。さらに、テナントのひと部屋が空いたのを機に、そこも借り上げて「2フロア体制」へと教室を拡張した。
さらに、鹿児島県でフランチャイズ計画も進めているそうだ。「個人でDJスクールを始めたいけれど、どうやっていいか分からない」という人向けにコンサルティング的なサポートを行いながら、全国展開を視野に入れている。
「今はまだ講師のみんなにはバイトのような金額で頼んでいるので、ちゃんと雇う形で拡大したいです。習いに来ている皆さんにも上達した先に、スクールから仕事としてDJを依頼できるようにしたいと思っています」

吉川さんには、小学生と未就学児の娘がいる。長女は今、DJに興味を示しており、地元の祭りでDJを披露するようになった。「父親が先生だと、ふざけ始めるからあかんなぁと。一緒にセッションする夢は捨ててないですけどね」と笑う。
ふと、「まったくDJの経験がない私でも、できますか?」と聞いてみた。すると、吉川さんは真面目な顔をして「DJは、100%誰でもできます」と答えた。
「楽器と違って、DJは音を止めなければどうにかなります。音と音が上手く繋がった瞬間は、爽快ですよ」
●FDP DJ SCHOOL
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