窯元の社長とホテルマン。結成42年を迎えた還暦バンドマンが音楽をやめない理由

「Happy Jam」では、島村楽器の“ブランドプロミス”実現に向けた取り組みとして、音楽や楽器にまつわる「人の物語」を届けていきます。壁にぶつかりながらも歩み続けてきた日々。誰かの物語が誰かの背中を押し、「また始めてみよう」「一歩を踏み出してみよう」と思えるきっかけになるかもしれません。

今回お話を伺ったのは、パンクロックバンド「CRACK The MARIAN」「JUNIOR」のヴォーカルとして活動しながら、大正5年(1916)から110年続く有田焼の窯元も務める武富カズキさん(60)と、地元のホテルで働きながら「CRACK The MARIAN」のドラムスとして音楽を続ける原田テルヨシさん(60)のふたり。どちらも佐賀県出身だ。

24歳でメジャーデビューを果たした彼らの道のりは、平坦ではなかった。音楽を手放さなかった、その歩みを聞いた。

バンドは死ぬまで続けていきたい

取材の前日、ふたりは福岡市内のバーでアコースティックライブを行っていた。友人がギターを弾き、テルさんが打楽器を叩く。そしてカズキさんが歌う。マイクもない。音響設備もない。「何もなかったね」とテルさんは笑う。今まで経験したことのない近さだった。

「ここに人がおる。恥ずかしい」。顔の前に手をかざし、カズキさんは照れくさそうに笑う。「生の声をダーンとぶつけるしかなかった。精一杯声を出さんと届かんし」。

毎回、現場が違えば、条件も違う。「全然違う条件でやるのって面白いよね。新しいことに取り組んでるってこと」とテルさんも笑顔を見せる。

去年の夏、カズキさんは肝臓の数値が悪化し「爆発しますよ」と医者に言われた。それから4カ月、一滴も酒を飲んでいなかったという。でもライブ当日は、目の前のお客さんに照れくさくなり、「気づいたら飲んでたもんね」と語る。それでも、ハメを外すこともなく、眠くなる前に帰ったそうだ。

還暦を迎えても、ライブができる場所があれば足を運ぶ。新しいことにも挑む。60歳のふたりは、まだ発見を楽しんでいる。

「バンドは死ぬまで続けていきたい」とカズキさん。テルさんも「還暦やけど続けたかね。あとは体力」と笑う。

▲取材前日、福岡市のバーで行われたライブ。集まったお客さんが還暦のふたりを祝ってくれた。赤いちゃんちゃんこのテルさんと、赤いジャケットのカズキさん(画像:原田テルヨシ)

自分で塗った「テレキャスター」

1966年、佐賀県有田町に生まれたカズキさんがパンクに出会ったのは、中学1年生の頃だった。

実家の2階で窓際に腰掛け、小さなラジカセから流れてくる音楽を聴いていたカズキさんは、衝撃を受ける。

「これ、なんやろうか!って思った。クラッシュっていうバンドの『ホワイトライオット』。今まで聴いた音楽とぜんぜん違った」

洋楽が好きな兄の影響でビートルズは聴いていた。でもその日、初めて聴いたパンクロックは、カズキさんを突き動かした。

「聴くっていうより、自分でやってみたいと思った。そういう音楽は初めてやった」

祖母にお願いして、佐世保の楽器屋であこがれていた「ザ・クラッシュ」のギターボーカル、ジョー・ストラマーと同じ形のギターを買ってもらった。ギターメーカー「荒井貿易」の「アリアプロⅡ テレキャスター」というモデルだった。

「2万円ちょっと。ナチュラルボディで黒のピックガードがついとった。それがかっこよかった。一番シンプルやけん、自分で色を塗ろうと思って」

ジョー・ストラマーの写真を見て、紺色にスプレーで塗った。その上にペンキで「CONTROL」と書いた。

「コントロールされている、抑圧されているみたいな」

実家は大正5年(1916)創業の有田有数の窯元。伝統や家柄を重んじる父は、3兄弟を厳しくしつけた。家や学校での「こうあらねばならない」をぶち壊してくれたのが、パンクだった。

紺色に塗ったギターを眺めて、ふと気づく。

「これ、真似やんって。ひとの真似してもダメやろと思って」

紺色の塗装をすべて剥がすと、今度はピンクに塗った。「ピンクのテレキャスは誰も持っとらんやろうって」、にやりと笑う。誰もやっていないことをやりたい。面白いことをやりたい。その姿勢は、この頃から一貫していた。

中学を卒業すると、地元の進学校へ進んだ。髪をツンツンに立てたカズキさんに、「お前、パンクやん」と話しかけてきたのが、のちにCRACK The MARIANのベーシストとなるヨージローさんだった。出会ったその日に意気投合し、ヨージローさんの地元・大町町の仲間と「The CRACK」を結成する。

当時ギターを担当していたカズキさんは、パンクスタイルも手作りしていた。父親のワイシャツにペイントを施し、赤チンキを血のように飛び散らせた。チェーンや犬の首輪を首に巻いて、外を歩いた。「武富さんとこの息子はおかしい」と田舎町ではすぐに噂が広まった。

▲1984年、右から2番目がテルさん。真ん中がカズキさん(画像:原田テルヨシ)

漫画を積み重ねて作った「ドラム」

1965年、ヨージローさんの地元、佐賀県大町町で生まれたテルさん。6つ上の兄の影響で洋楽にハマった。仲間が家に集まると、キッスやエアロスミスをラジカセで高らかに鳴らし、ヘッドバンキングで盛り上がるのがお決まりだった。

進学したのは、カズキさんと同じ高校。テルさんは笑いながら、当時をこう振り返る。

「ハイティーンブギの翔さんにあこがれる、リーゼントのなり損ない集団みたいやった。そのなかでもカズキは、ちょっと匂いが違った。高校で先輩たちのコピーバンドを見て、退屈に感じるなかで、カズキたちのファッションや演奏はドキドキ、ゾクゾクした」

テルさんの周りでも、大町町の同級生たちがバンドを組もうとしていた。「ドラムがいない」と聞いたテルさんは、迷わず手を挙げた。ドラムをやりたいわけではなかった。ただ、そのバンドに入りたかった。

「こいつらと一緒に面白いことやりたい。なら、ドラムやろうって」

ドラムセットは高くて買えない。それでも毎日、練習に励んだ。いったい、どうやって——?

漫画を積み重ねて、ドラムセットに見立てた。バチで叩けば、それはドラムになった。休日には、仲間の父親が勤める会社の倉庫に集まった。そこには、バンドメンバーが雑誌の裏で見つけた安いドラムセットが置いてあった。そこで練習し、家に帰ったら漫画を叩く。そうやって身体で覚えていった。

「最初にドラムを叩いた時の感覚、覚えてますか?」と聞くと、テルさんは満面の笑みを浮かべ、即答した。

「なんか知らんけど、めちゃくちゃ楽しかった。ぜんぜん上手く叩けんし、見よう見まねやけど。もう他に『こんなのない!』って感じ」

テルさんが組んだバンドの名は、「The MARIAN」だった。

▲1984年、高校卒業前。「The MARIAN」のメンバーとバンド仲間と。右から2番目がテルさん(画像:原田テルヨシ)

東京でバンドをやろう

高校を卒業した1984年、ふたりは上京する。カズキさんは東京の美術系の大学へ。テルさんは、半導体部品を製造する企業へ就職。会社の寮にドラムセットを置けることが決め手となった。

「東京でメジャーデビューする」

別々のバンドにいながら、ふたりの目的は同じだった。とはいえ、どちらのバンドもメンバー全員が上京できたわけではなかった。「The CRACK」と「The MARIAN」から上京したメンバーがポジションを補い合い、5人で「CRACK The MARIAN」を結成した。

仲間の家に集まり雑魚寝して、楽曲を作る。ライブハウスを巡り、曲を演奏する。東京での暮らしは楽しかった。他のメンバーたちが働くなか、仕送りをもらい、大学生活を送ることに疑問を感じはじめたカズキさんは、2年で大学を中退。ボーカルの脱退を機にギターを置いてマイクを握った。

1988年、新宿ロフトでの前座出演を機に音楽事務所と契約。1990年、メジャーデビューを果たす。この2年間は、決して楽な道のりではなかった。

▲1993年、横浜赤レンガ倉庫前で「CRACK The MARIAN」自作パンフレット用の写真撮影(画像:原田テルヨシ)

血豆だらけの手で叩いたドラム

「お前らが下手くそなせいで、カズキはソロデビューの話を断ってるんだぞ」

テルさんはある日、事務所の社長に告げられた。なにも知らなかった。カズキさんは、バックバンドをつけてソロでデビューする話を断り続けていたのだ。翌年、新年の挨拶で事務所を訪れた際、カズキさんは社長にこう宣言した。

「今年4人でデビューできなかったら、全員で九州に帰ります」

そこから急にライブが増え、バンド活動は慌ただしくなっていった。そのなかでテルさんはプレッシャーを感じていた。

「お前のドラムじゃレコーディングできんから、スタジオミュージシャンを雇う。ドラムを新しい子に変えた方がいい」

容赦ない社長の言葉にテルさんは、必死になった。血豆だらけの手に包帯を巻いて、スティックが逃げないようにして叩き続けた。

「毎日毎日叩いた。それでも、ぜんぜん上手くはならんやった……」

運命のレコーディング

手応えを感じられぬまま迎えたレコーディング当日。スタジオには知らない男性がひとりいた。ドラムのチューニングを行うひとだと紹介された。「ドラムにもチューニングがあるんだ……」。その時は、そう思っていた。

ギター、ベース、ドラム。ひとりずつ音を録っていく。テルさんの番がやってきた。必死で叩いた。なんとかレコーディングを終えると、社長が言った。

「お前ができなかったら、あのひとが代わりに叩く予定だったんだぞ」

ドラムのチューニング係は、プロのドラマーだった。あの日、テルさんが叩けていなければ——このメンバーでのCRACK The MARIANはなかった。

「いま、こうしてカズキと一緒にインタビューを受けることもなかったろうね」

やめようと思うことはなかったのか。テルさんは、ゆっくりと首を横に振った。

「それはなかった。自分に言い聞かせよったよね。『お前、何しに東京来たと?』って。音楽がやりたくて来たんやろう。仲間がおるやろうって。ここで頑張ったら、仲間と一緒に行ける。ひとつ先に行けるって」

デビュー後、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」でのチケットは、即ソールドアウト。伝説のライブハウスと呼ばれた、バンドマンたちのあこがれの場所でもあった。満員の客席にスポットライトが当たった瞬間、観客たちの顔が見えた。

「その時、『これ死んでもいい』って思った」

漫画を積んでドラムを叩いていた少年は、夢の舞台に立っていた。

▲東京に暮らしていた頃。テルさんの自宅の部屋(画像:原田テルヨシ)

テルさん脱退、そして活動休止

年間100本のライブをこなし、テレビやラジオにも出演した。「いま自分がどこにいるのか、わからなくなるほどだった」とテルさんは振り返る。

しかし、充実した日々は長くは続かなかった。

デビューから2年が経つ頃、事務所が経営破綻。30歳を迎える頃には、メンバーの関係も悪化していった。1995年、テルさんはバンドを脱退する。「耐えられんやった……」とテルさん。多くは語らなかった。翌1996年、CRACK The MARIANは新宿ロフトでのライブを最後に活動を休止した。

カズキさんは、パチンコ店で偶然出会った「ヒルビリー・バップス」「ザ・タイマーズ」のウッドベース担当・川上剛さんに声をかけられ、パンクバンド「JUNIOR」を結成。音楽を続けた。

脱退後、テルさんはいくつかのバンドで活動していた。

「仮想目標がCRACK The MARIANなわけ。あのバンドを超えないと先に行けんって思っとった。でも、誰と、どうやっても、背中が見えんやった」

2009年、ベスト盤の発売を機にCRACK The MARIANは活動を再開。テルさんも戻ってきた。

「一番楽しかったのは、このひとたちと一緒にやってた時」

▲2022年、浜松でのライブ(画像:原田テルヨシ)

パンクも窯元も、続ける

2013年春、カズキさんの人生が一瞬にして暗転する。ある日の昼下がり、突然倒れた。脳幹出血と診断された。47歳だった。

一命を取り止めたものの、左半身に麻痺が残った。病室のベッドで、2カ月後のライブのことばかり考えていた。

「ちゃんと立てるようになるとかなって。ライブも何本かキャンセルになってしまったし。こん時が一番きつかった」

毎日、Tシャツが汗でびっしょりになるまで、リハビリに励んだ。倒れてから約3カ月後、カズキさんは宮城県南三陸町での復興支援ライブのステージに立っていた。

「『人間ですか?』って医者もびっくりしとった。まだまだ歌えるって思ったね」

ほっとしたのも束の間。母に呼ばれ有田に帰ると、家業が窮地に追い込まれていた。実家の窯元は、旅館や料亭、飲食店向けの業務用食器を製造していた。バブル崩壊以降、大口取引先は減り、安価な輸入品の流入で有田焼の需要は落ち込んだ。会社は2億9000万円の負債を抱えていた。父亡き後、会社を継いだ兄は体調を崩した。次第に連絡が途絶え、やがて行方がわからなくなった。2番目の兄も入院中。家業を支えられるのは、カズキさんしかいなかった。

「自分だけ東京に帰ることはできんやった」

2013年12月、有田に居を移した。父の代に会社を支えてくれた税理士に相談し、会社を清算。新会社として「親峰武堅(しんぽうたけけん)」を設立。業務用食器を作る「親峰」ブランドと、明治初期から続く「武堅」ブランドを引き継いだ。

パンク仲間との会話から、有田焼でドクロを作るアイデアが生まれ、2年の試行錯誤を経て「骸(MUKURO)」が誕生。2023年にはパリコレクションにも登場した。

▲成型されたドクロ。白さを際立たせるため、原料には熊本・天草産のなかでも不純物の少ない陶土が使われている(画像:筆者撮影)

それでも、現実は厳しい。現在、工場は閉鎖し、新規受注も止めている。窯元の看板は守りながらも、事業を続けていくのは容易ではない。

「会社を継いで以来、ずっと大変……そのなかでも『有田焼のドクロ』をなんとか世に送り出そうって海外展開に向けて準備しよる。ひとのせんことをやる、面白いことをやるところは、パンクと共通しとるかな」

▲「骸(MUKURO)」。実物の1.3倍の人体模型をもとに3Dプリンターで型を制作。パーツごとに5つの石膏型で成型し、素焼き後、カズキさんが藍色の呉須で絵付け。1260度で焼成し、金彩を施して仕上げた。顎関節はボルトで固定。額には初めて作った楽曲「18」、後頭部には向日葵が描かれている(画像:筆者撮影)

“わらじ”じゃなくて、”ラバーソール”

「音楽を辞めようと思ったことは、なかったかな。色んな話があったら、できるだけ無理なく断らんでやってみる。続けてみようと思って、やってきた」とカズキさん。

静かに、振り返る。

「社長には向いてないと思いながら、いまもやりよる。従業員の話を聞いたり、同じ目線で考えるようにしたり、ものの見方は広がった。いままでは、気が合わないと思ったら全部無視。独りよがりやった。でもいまは、一応話を聞いてみるようになったかな」

「2足のわらじですね」と言うと、すかさず「わらじじゃない。履いてるのは、ラバーソールね」と返ってきた。ラバーソールは分厚くて重い。仕事の時に履くエアソールも重い。「スニーカー履けば」と友人に言われるが、「好きな靴を履きたい」とカズキさん。「おかげで足腰は鍛えられとる」とニヤリと笑った。

▲カズキさんのラバーソール。「自分にとって大事なものを長く履きたい」とカズキさん(画像:筆者撮影)

年不相応なことをしていきたい

2025年、東京から地元の大町町に戻ったテルさん。今はホテルで接客の仕事をしながら、音楽を続けている。仕事が休みの日は、仲間の車庫を借りてドラムを叩く。あの頃と、変わらない。

「昨日ライブでキャーキャー言われたのに、次の日には『いらっしゃいませ』って言ってる自分がおる。それでいいと思ってる」

音楽があるから、仕事も嫌なことも頑張れる。ライブ前日はワクワクするし、ライブに出れば「かっこよかった」「中学時代から聴いてます」と声をかけられる。「誰かの記憶に残るひと」として、かっこよくありたい。

「バンドに出会わなければ、普通の大人になれてたかもしれん(笑)。年不相応な格好で、年不相応なことをしていたい」

そう語るテルさんに、好きなことを長く続けられる理由を聞くと、意外な答えが返ってきた。

「まずやってみたらいい。それで、一回やめてみることかな。嫌になって、顔も見たくなくなっても、しばらくしたら、恋しくなるんよね」

隣に座るカズキさんを見て、にやっと笑った。

▲話の尽きない、テルさんとカズキさん(画像:筆者撮影)

猫のマーキング 

「猫社長」の愛称で呼ばれるカズキさんは、長年続けているバンドをこう表現する。

「自分の居場所を確かめられる、”猫のマーキング”みたいな。ここに自分がいて、そこで生きとるっていうのを確かめられるのがバンド。一緒に声を出して、盛り上がる。まず、メンバーどうし。あと、お客さんが楽しんでくれたら、もうそれだけで全部OK」

テルさんが身を乗り出す。

「このひとの書いた歌詞の世界では生きていける。押し付けない。ボーカル、カズキでよかったなぁって思う(笑)」

ぽつりぽつりと、カズキさんが語る。

「『俺はこうだから、おまえらもそうだろう』って説教や強要はしたくない。自分がそうされるのは、嫌やけん。『こうせないかん』を、いかに無視するか。パンクは、ぶち壊すところからはじまる。校則とか常識とか、戦おうという気はなくて。ユーモアを持ってやれば楽しい。音楽も遊びがあったら楽しい」

「それが俺たちの、持ち味」

▲2025年、藤枝のライブで。「CRACK The MARIAN」メンバー4人(画像:原田テルヨシ)

どんなステージにも立ち続ける

2026年も、CRACK The MARIANのライブスケジュールは、春まで埋まっている。10年前、カズキさんは地元の有田でパンクロックフェスを開催した。今度はテルさんの地元、大町町で野外フェスを開催する。

「ずっと面白いことをしていたい」と口をそろえる。

立ち止まっても、離れても、また始めればいい。音楽を手放さなかったふたりは、2026年5月、大町町公民館前のオリオンプラザのステージに立つ。

▲(画像:筆者撮影)

取材・文・撮影=サオリス・ユーフラテス

カズキさんとテルさんが所属するバンド「CRACK The MARIAN」

X@CRACKTHEMARIAN
Instagram:crack_the_marian1990
FB :https://www.facebook.com/crackthemarian/

カズキさんが所属するバンド「JUNIOR」

X:@JUNIOR_JPN
Instagram:junior_jpn_official

この記事を書いた人

サオリス ユーフラテス

佐賀生まれ。製薬会社勤務を経て、五大陸の旅へ。帰国後、リクルートエージェントで14年半、7,000人以上のキャリア支援に携わり、2021年に独立。現在は福岡を拠点に、人の営みや人生を深掘りするインタビュー、経営者のアウトプットサポートを手がけている。「正しい道より、楽しい道を。最短距離より、寄り道を楽しむ」ことがモットー。

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