第2回 スペインで学ぶ──フェレール工房、そしてマドリードへの道
ギターの音づくりを生涯のテーマにすることを決心し、クラシックギターの本場スペイン
でギターの音づくりの神髄を学びたい──。
その思いが強くなった江崎秀行氏は、会社へ留学を希望するレポートを提出しましたが課題もいろいろありました。
留学先は学校ではなく、現地の個人工房。卒業や修了という明確な区切りもありません。
当然、会社としては簡単に許可を出せる話ではありませんでした。
「最初は一度、レポートを突き返されました。」
それでも江崎氏は諦めませんでした。
ヤマハと技術交流のあったエドゥアルド・フェレール氏とはすでに面識があり、受け入れについても話は進めていました。しかし、会社としては「本当に大丈夫なのか」という不安が拭えなかったのです。
そんな中、部長が交代します。
「新しい部長は『行けば何とかなる』というタイプでした。」
そんな豪快な後押しもあり、ちょうどヤマハでは全商品の高級品の開発に力を入れ始めていたことも追い風となり、ついにスペイン行きが決まります。
「決まったら、『早く行け、早く行け』でした。」
まずは、ヤマハとも技術交流のあったグラナダのフェレール氏の工房で学び、さらにマドリードで受け継がれてきた伝統的なクラシックギター製作を身につける──。そんな思いを胸に、1972年、江崎氏は希望と不安を胸にスペイン・グラナダへ渡りました。

ところが、待っていたのは温かい歓迎ではありませんでした。
スペインでギターの製作技術は家族や親戚に受け継がれていく世界。
フェレールの家族は、日本の企業から派遣された若い職人が加わることに、周囲は簡単には心を開きませんでした。
「最初は、かなり厳しかったですね。」
文化や習慣、働く時間帯、食事も異なる。
言葉も十分に通じない。工房責任者がいろいろと言っているが辞書見ろというので、辞書を引くと「泥棒」と言う単語もあった。
技術は身内に受け継ぐものという考えも根強く、最初の半年ほどは苦労の連続だったと振り返ります。
日曜日にフェレールの孫で5歳の女の子とアルハンブラ宮殿に遊びに行くことが癒しになっていました。
それでも、言われたことを一つひとつ真面目にこなし、黙々と仕事に向き合い続けました。
すると少しずつ周囲の見る目が変わっていきます。
「半年くらい経ったら、ご飯を食べに来いとか、いろいろ連れて行ってくれるようになりました。」
厳しかった工房も、やがて家族のように受け入れてくれる場所になっていったのです。

フェレール工房で学んだのは、製作技術だけではありませんでした。
職人が木と向き合う姿勢。
アンダルシアの乾いた空気。
仕事への考え方。
「物差しは捨てろ。ギターは感覚でつくる。悪いものもできるが飛びっきり素晴らしいものもできる」。
図面では伝わらない「ものづくりの文化」を、江崎氏は肌で感じていきます。
そして、もう一つ大きな目標がありました。
マドリードで受け継がれてきたクラシックギター製作を学ぶことです。
グラナダのフェレール氏から貴重な教えを受けながら、マドリードで築かれた伝統にも触れたい──。
その思いは、スペインへ渡る以前から抱いていたものでした。
フェレール工房での修業を終えた江崎氏は、1973年1月マドリードへ向かいます。
とはいえ、受け入れ先が決まっていたわけではありません。
「今度は、工房を一軒一軒訪ね歩きました。」
頼りになったのは、ヤマハのスペインのインポーターの社長でした。
「社長に入門したい工房のリストを出して社長と一緒に一軒一軒工房を訪ねました。」
しかし、どこも簡単には受け入れてくれません。
手工ギターの世界は、家族や弟子へ技術を受け継ぐ文化が根付いています。
ましてや会社から派遣された外国人が工房に入ることは、極めて難しいことでした。
それでも江崎氏は諦めませんでした。
何度も足を運び続けた末、世界的名工マヌエル・エルナンデスの工房への道が開かれます。
ここでの経験が、江崎氏のギター製作を大きく変えていくことになるのです。
(第3回へ続く)
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記事担当:山崎(やまざき)

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