![こんにちは!名古屋パルコ店インストラクターの荻野です。皆さんは作曲家についてどれくらい知っていますか?作曲家は、生まれた時から天才な人もいれば、相当過酷な人生を歩んでいる人もいれば、、、様々です。そこで今回からぼちぼち作曲家の人生をお伝えしていこうと思います! CONTENTSC.Debussy(C […]](https://www.shimamura.co.jp/shop/nagoya/wp-content/uploads/sites/50/2025/12/20251211-image_20251211_182752_811.jpeg)
【やすらぎのドビュッシー】どんな人物?
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こんにちは!名古屋パルコ店インストラクターの荻野です。
皆さんは作曲家についてどれくらい知っていますか?
作曲家は、生まれた時から天才な人もいれば、
相当過酷な人生を歩んでいる人もいれば、、、様々です。
そこで今回からぼちぼち作曲家の人生をお伝えしていこうと思います!
CONTENTS
C.Debussy(C.ドビュッシー)
私が一番大好きな作曲家ドビュッシーからご紹介します!
また生い立ちや、ドビュッシーが作曲した曲目も載せていますので、あわせてご確認ください♪
※ピアノ曲に集中しています。
幼少期
クロード・ドビュッシーは1862年にフランスで生まれました。
家は陶器店をしていましたが、あまり裕福ではなく、ドビュッシーが5歳の時にパリに引っ越しました。
音楽との出会い
1871年にパリ・コミューンという戦争が起こり、お父さんが捕まり、刑務所に入れられます。
そこで知り合った音楽家シャルル・ド・シヴィリがドビュッシーの才能に気づき、ピアノの先生を紹介しました。
この先生が、ショパンの弟子だったかもしれないモーテ夫人です。彼女は貧しかったドビュッシーに、無料でピアノを教えてくれたそうです。
音楽院時代
1872年、10歳のドビュッシーはパリ音楽院に入学します。
ピアノを学び、一等賞とはいきませんでしたが努力を続け、1880年には伴奏部門で一等賞を受賞しました。
その後、ロシアのメック夫人(チャイコフスキーを経済的に支えていた人)に楽師として雇われ、
世界を旅するうちに、さまざまな音楽や文化に触れることになります。
幼少期から20代前半まで、有名なピアの曲は少ないですが、
・小さな練習曲
・友人たちのための小品
などを少しづつ書き始めています。
若き作曲家としての歩み
1884年、ローマ大賞という名誉ある作曲の賞を受賞。
イタリア留学中は本や詩をたくさん読み、「象徴派」と呼ばれる文学グループの考え方に共感しました。
彼の音楽が「印象派」と呼ばれるようになるのも、この影響が大きかったといわれます。
〇《ベルガマスク組曲》(最終的な完成は1890年代)
まだ「印象派」というより、ロマン派的な雰囲気も強く、
ショパンなどからの影響も感じられます。
有名になるまで
1893年に《弦楽四重奏曲》、1894年に《牧神の午後への前奏曲》を発表し、少しずつ名前が知られるようになります。
しかし代表作オペラ《ペレアスとメリザンド》の上演がなかなか決まらず、経済的には苦しい暮らしが続きました。
〇《ベルガマスク組曲》の完成
〇《ピアノのために》プレリュード、サラバンド、トッカータ
《ピアノのために》はやや古い舞曲やバッハ的な書法を思わせつつ、
ドビュッシーらしい新しい和音の響きがはっきりしてきた作品です。
結婚と成功
1898年にリリーさんと結婚しますが、とても貧しく、披露宴の食事代をピアノの出張授業で稼いだという話も残っています。
1901年に《夜想曲》、1902年にようやく《ペレアスとメリザンド》が初演され、大成功!します。
40歳でようやく一流音楽家の仲間入りをしました。
恋と波乱
1904年、弟子の母親だったエンマ・バルダックと恋に落ちます。
ドビュッシーはリリーのもとを去り、エンマと一緒に暮らし始めました。
この出来事がきっかけで、多くの友人を失ってしまいます。
1903~1905年ごろ
〇《版画》パゴダ、グラナダの夕べ、雨の庭
〇《喜びの島》
※このあたりの作品は、「水」「光」「異国の風景」などをピアノだけで色鮮やかに描いた曲が多く、
ドビュッシーらしい「新しい音の色」が最もよく表れている時期です。
家族と晩年
1905年に交響詩《海》が発表され、同じ年に娘シュシュが誕生します。
家族との生活は幸せでしたが、だんだん生活費もかさんでいきました。
その後も多くの作品を生み出しますが、1910年ごろからは病気に苦しめられます。
1905~1908年ごろ
〇《映像第1集・第2集》
〇《子供の領分》(娘シュシュのための組曲)
1909~
〇《前奏曲集 第1巻》(「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」など)
〇《前奏曲集 第2巻》
〇《練習曲集》
最後の作品と最期
戦争が始まった1914年ごろには創作の勢いを失いますが、
1915年には《チェロ・ソナタ》
そして《練習曲集》を短期間で書き上げました。
1917年に最後の作品《ヴァイオリン・ソナタ》を初演。
そして1918年、55歳で亡くなりました。
現在はパリのパッシー墓地に眠っています。
まとめ
貧しい家庭から音楽の道に入り、「新しい音の色」を作り出した革新的な作曲家です。
自然や詩、夢のような感覚を音で表すことを得意とし、その音楽は今でも世界中で愛されています。
いかがでしたか?
不倫男だと知って驚いた方いらっしゃいますか?
喜びの島にいるときのドビュッシーは、
自分のしている“こと”の重大さをまだ分かってないようですね、恐ろしい。
では、次回の作曲家は誰でしょう~♪
| 店舗 | 島村楽器 名古屋パルコ店 |
|---|---|
| 担当 | 荻野(おぎの) |
| 電話番号 | 052-264-8316 |
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